下紺屋町

町の歴史

城下町上田の形成花園八幡神社上田獅子絵馬私鉄の開業

城下町上田の形成

天正11年(西暦1583年)頃始まった真田昌幸の上田築城は、同時に城下町上田の出発となる。第一に行なわれたのは城郭周辺への武士の集注であったと考えられるが、これには兵農分離の目的があり、江戸時代の身分制度の下準備がすすめられた。次に真田氏とゆかりの深い小県郡原之郷と海野郷のひとびとを移住させ、町家の中心とした。これが原町と海野町で、それぞれ故郷の郷名をとって町名にしたのである。一方もといた場所は地名に元(本)の字を加え、本原・本海野とよぶようになる。海野町と原町はともに六斉市を問く権利を持ち、また問屋が設置されていて宿場としての役割も果していたから、上田の経済・運輸・交通の中心となった。問屋は海野町が柳河太郎兵衛家(本陣兼帯)、原町が瀧渾助右衛門家で、それぞれ世襲していた。

続いて本海野の鍛冶職人と紺屋職人を招いてつくられたのが鍛冶町と紺屋町で、職人町の形成および城下町東西両端の決定という二重の意味をもっていた。
上田城下の用水は東から西に流れており、きれいな水が必要な鍛冶町は城下町の東端に、染物のすすぎで水を汚す紺屋町は城下町の西端に配置された。
また、火を使うため火災を起こす恐れのある鍛冶町は、一般に風下側に置かれたといわれている。
江戸末期には町の西に、多くの人々が住むようになり、下紺屋町と名づけ、それまでの紺屋町を上紺屋町と呼ぶようになった。

 
城下町復元図

城下町復元図

 
上田城 本丸大手口

上田城 本丸大手口

上田城

上田城

 
弘化4年

弘化四年(西暦1847年)の上田城下町用水絵図

 

弘化4年(西暦1847年)の上田城下町用水絵図には下紺屋町の記載がみられる。
現在の下紺屋町と鎌原町の境(栄食堂)の通りは家中小路と言われて、通用門があり木戸番所が設置されていたという。
ちなみに城下町上田の南は干曲川、北は矢出河川で区切られていた。城下町の区域の決定は村方(在)と町方を明確にわけることになり(町在分離)、村方での店商いを禁止して百姓と町人の職分をはっきりさせ、これも身分制度へとつなげていった。

真田氏は「城下囲い」つまり城下町の外郭地帯形成のために、周辺にあった村々を城下町の各入り口に移住させた。北国街道の東南の江戸方面目に踏入・常田、北西の善光寺方面目に鎌原・西脇・生塚・秋和、西南の保福寺街道(松本・塩田方面)口に諏訪部、北東の上州沼田街道ロに房山という計八か村で「城下の八邑(はちゆう)」とも呼ばれた。