町の歴史
|城下町上田の形成|花園|八幡神社|上田獅子|絵馬|私鉄の開業|
出沢川が町の北部外濠としてあったので、その外に町が拡大することは容易ではなかった。
川向こうには西の入口の新町に向原寺が、その東方にはハ幡神社、海禅寺、呈蓮寺、大神宮、大輪寺と大きい社寺が並んでいるだけで一面水田であり畑であった。
大正9年になって新地に行く自動車道の必要からハ幡前から花園町が開け、下紺屋町にも通じ、その入口に花園鉱泉ができた。
昭和7年に従来の北国街道(西脇、鎌原、紺屋町、柳町の通り)が矢出沢川をこえて北側に新たに開通し、それが鈴蘭通りの北端で十字路となったことである(東方は川原柳に通じて従来の上州街道に代わった)。
上田遊廓は明治11年に許可が下り、開業は明治15年である。そして昭和18年にその幕を閉じたが、この間65年にわたって公娼制度が維持されたのである。
明治政府が租税増収の方法として考えた政策が全国的な廓設置であり、上田町郊外の常盤城村新屋(新地と呼ばれた)につくられた。
廃藩置県により上田城の櫓二基が競売で遊廓に移転し金秋楼と萬豊楼として営業された。妓楼になったのは時代の変転を象徴する事象であった。ともあれ一般には公認の娯楽施設として歓迎され、地元の繁栄にも寄与したことは事実である。